合気道のルーツ

合気道のルーツ

武田惣角先生.jpg合気道は植芝盛平師が創始したと語られています。しかし、その元になる武術は、会津藩の城内で使われていた「会津御式内」(あいづおしきうち)として密かに伝承されてきた「大東合気流柔術」が技のルーツと思われます。
そしてその技の使い手が武田惣角(そうかく)師で、まさにまれにみるスーパー達人と言われています。

「大東流合気柔術」は源義家の弟、新羅三郎義光が築いたと言われています。義光はクモが細い糸で大きな虫を巧みに捕らえるさまからヒントを得て、また戦死体や罪人の死体を解剖して、人体の構造を研究し技の構築に生かしたようです。

この義光の館が「大東の館」と呼ばれたことから「大東流合気柔術」と名付けられていました。この技が後に甲斐の武田家に伝わり、門外不出の秘伝の武術として時がたち、天正2年(1574年)に武田國次が会津にわたってからその子孫が代々継承し「会津御式内」となっていたようです。

明治になってから武田家の末孫の武田惣角師が、この秘伝を世に公開するようになり植芝盛平師と出会い「合気道」が生まれたのです。

武田惣角と植芝盛平の出会い

時は明治の終わり、大正の初めのころです。北海道湧別で宿屋をやっている堀川泰宗が、汽車の中で知り合った武田惣角に自分の住所を教え、訪ねてくるように言った。

武田惣角がやってきたので急遽人を集め講習会を開き、佐川子之吉(ねのきち)とその長男、佐川幸義(ゆきよし)も参加した。それが佐川親子と武田惣角との出会いで、佐川幸義10歳の頃でした。

父親・佐川子之吉は50歳過ぎて今更とは思ったが、武田惣角の凄い技を次々に魅せられて、早速自宅に18畳の道場を立て、武田惣角を呼び2年間、午前と午後に稽古をしました。

父親・子之吉は、武田に習っては工事作業夫の強そうな者を相手にいろいろと試してみるが、結局、武田惣角のような合気がない限り、敵に頑張られたら技が効かないことを早くから察知していて、「技よりも合気を教えてほしい」と武田惣角に頼んで習ったが、「あれは武田先生の身体に染みついたもので、他の人にはできないのではないか」と言っていたそうです。(この点は、合気道の技は力ではないという根源を示している気がしますね)

そうこうしているうちに、子之吉は大正3年3月に教授代理になった。翌年大正4年に知人が連れてきた植芝盛平に会い、子之吉が教授代理として植芝盛平を教えたのです。

植芝は柔術をやっていてかなり自信を持っていた。ですから武田惣角のことを「この田舎武芸者が」と言う感じで偉そうにやってきましたが、武田惣角にさんざん技をかけられたうえに極められ、道場の隅で涙を流していたそうです。

しかし、武田惣角の実力を知った植芝はこの武術の修行に夢中になっていったのです。これが後に植芝が合気道と名付ける武道の始まりとなったのです。

武田惣角は相手に技をかけて見せるだけで、理論的に細かく説明することは一切なかった。武術と言うものは、その技を知られてしまえば掛けにくくなり、不利になると思っていたかもしれないが、基本的に技は習うものではなく盗み取り、研究するものと言う考えだったらしい。

植芝盛平先生.jpgしかし、植芝盛平は大正4年2月に武田惣角に合い教授を受け、わずか1年後の大正5年3月には大東流柔術の目録「秘伝奥義之事」を受け、その後も武田惣角代理として指導に当たっています。

ここが植芝盛平の凄いところで、武田惣角に技をかけられただけでその技をマスターしてしまうところは、やはり凡人ではない達人である証拠でしょう。