合気道の歴史

武田惣角、佐川幸義、植芝盛平 達人たちの年表

現代の合気道ができるまでの歴史を語るときに、外すことのできない3人の達人がいます。それは武田惣角、佐川幸義、植芝盛平です。いろいろな文献に登場するので、ご存知の方も多いかと思いますが、それそれがどのようにかかわっていたのか時間軸で見て、相互のかかわり度合いと、その年齢を一覧表にしてみました。

じっくり見てみますと、なかなか興味深い発見もあります。ご覧ください。 (まだ完成してませんが順次追加していきます)

和暦 西暦 年齢 武田惣角(150cm) 年齢 佐川幸義(163cm) 年齢 植芝盛平(156cm)
      (57kg) (75kg)
安政6年 1859 0 武術家で宮相撲力士でもあった会津藩士・武田惣吉の次男として、現在の福島県河沼郡会津坂下町で生まれた        
安政19年 1872 13 父を説得して上京し、父の友人であった直心影流男谷派剣術の榊原鍵吉の内弟子になり剣術の他、棒術、槍術、薙刀術、鎖鎌術、弓術なども学んだ。        
明治16年 1883         0 12月4日和歌山県田辺の富裕な農家に長男(姉3人・妹1人)として生まれた。父・与六は村会議員を務める村の有力者で、巨躯・怪力の持ち主、母ゆきは甲斐武田氏の末裔という糸川家の出。
明治21年 1888 29 福島県会津坂下町で結婚し、長男と長女をもうけた。        
明治29年 1896         13 田辺中学校に進むが一年を経ず中退、珠算学校を経て田辺税務署に勤務する
明治31年 1898   霊山神社の宮司をしていた保科頼母より「剣術を捨て、合気柔術を世に広めよ」との指示を受け、剣術の修行を止めて大東流合気柔術の修行をしたという。        
明治31年以降     全国行脚して大東流合気柔術の技法を教授し、数多くの門弟を育てた        
      惣角は生涯、道場を持っての教授を行わず、請われれば何処にでも出向き、年齢・出身・身分の差別無く大東流合気柔術の技法を広めた        
      また、全国行脚の最中に様々な他流試合や野試合を行い、大東流合気柔術の実戦性を証明した。        
明治34年 1901         18 「磯事件」(漁業法改正に反対する漁民の権利運動)に加担し、それが元で税務署を退職。
明治35年 1902     0 7月3日北海道紋別郡湧別町に佐川子之吉の長男として生まれる 19 春上京し父与六の援助により文房具卸売業「植芝商会」を設立。その傍ら起倒流柔術・神陰流剣術を学ぶ。商売は成功するが、夏頃不摂生が祟って脚気を患い、店を従業員に譲って無一文で帰郷する。
明治36年 1903         20 10月、2歳上で幼馴染の姻戚・糸川はつと結婚。身長515分(約156㎝)体重20貫(75kg)同年12月の再検査で合格、陸軍大阪第4師団歩兵第37連隊に入隊。
               
明治39年 1906     4 肋膜を患い札幌病院で治療。小さいころは体が弱く臆病であったようだ。   日露戦争が終わり帰国。上官から陸軍戸山学校への入学を勧められ職業軍人への道を歩みかけるが、父の反対により断念、同年除隊し田辺に帰郷する。
              。精神的に不安定になり躁鬱を心配した父与六が自宅納屋を改造して柔道場を作り、田辺来遊中の柔道家・高木喜代市(のち講道館9段)を高額を以って招き指導を依頼した。盛平はたちまち柔道に夢中となり躁鬱の気も軽減、道場には近郷の青年も集まり青年会の趣を呈す。
明治41年 1908         25 坪井政之輔より柳生心眼流免許を受ける。
明治44年 1911   佐川の近所に住んでいた宿屋の主人・堀川泰宗と汽車の中で知り合いになり、呼ばれる。 9 小野派一刀流の剣術を習い、どんなに痛くても泣いたことはなく、気性の激しい子供だった。このころ武田惣角と出会う    
大正元年 1912 53 惣角は北海道で再婚し、以後、北海道を本拠地とするようになった。        
大正3年 1914 55   12 父・子之吉は武田惣角の教授代理になり、植芝盛平に教授 31 武田惣角に出会い、さんざん技をかけられ極められて、惣角の凄さを知った。
大正8年 1919     17 合気上げを修得し、父親に感心される(父親はできなかった)    
大正9年 1920     18 東京・下渋谷で下宿し、「天下無双の大東流」道場を開く。すぐに20人くらいの入門    
        20 武勇伝沢山あり    
大正12年 1923       関東大震災があり、北海道に戻った。    
               
               
               
昭和3年 1928     26 川原美代子と結婚    
               
               
昭和11年 1936 77 武田惣角、三男の時宗と佐川幸義との3人で仙台から福島、そして関東へ講習 34 武田惣角の助手として武田時宗と3人で各地を回る。福島警察署、浦和警察署、埼玉警察署、大宮警察署など    
      自分を呼んだ人のうちに泊まり、全国をまわったが、町の金持ちとか名士にしか教えなかった        
昭和12年 1937       警視庁荏原警察で警官24名指導    
昭和13年 1938       北海道庁警察部で講道館五段の久保島武夫を指導    
               
               
昭和15年 1940 81   38 北海道から東京中野に引っ越し    
昭和17年 1942 83   40 中野の自宅道場で柔道六段の日恵野恭三を指導    
昭和18年 1943 84 太平洋戦争中に青森県で客死した。享年84        
昭和23年 1948     46 遠野の公安所、北見警察署、北見市役所で医師、道議会議員などを指導
武田惣角の弟子・明治15年生まれの加藤忠三郎が入門
   
昭和24年 1949     47 北海道砂川町警察署、北海道警察学校、岩見沢警察署、夕張警察署、病院長、市長など指導    
昭和27年 1952     50 東京文京区で指圧学院長の浪越徳次郎に教えた。    
昭和28年 1953     51 武田惣角の長男・武田宗清(76歳)が大東流を田舎柔術と言って馬鹿にした柔道六段の男をやっつけてほしいと頼まれ、佐川がその男をやっつけたら、宗清は涙を流して喜んだ。    
昭和30年 1955     53 岩手県千厩警察署を教えたり、同時に複数を掛らせたりして技を見せ、これを見ていた武田惣角の弟子4人が「これは武田先生よりすごい」と非常に感心してしまい佐川に入門した。    
昭和54年 1979     77 武田惣角の晩年の弟子・山本角義の後継者で宗家と名乗る高橋春生と言う人が「腕前を見せてほしい」と尋ねてきた。高橋はバシバシ投げられてしまい「佐川先生はすごいと聞いていたけれど、本当に幻の技が存在するのですね」と言って、すっかり自信を無くしてしまったようだ    
               
               
               
               
               
平成10年 1998     95 3月24日逝去