鬼の冠(武田惣角)

鬼の冠(武田惣角)

著者:津本 陽  新潮出版

鬼の冠・武田惣角

合気道のルーツと言われている会津藩御式内として伝えられてきた「大東流合気柔術」。その達人・武田惣角の一生をまさに痛快映画を見るような描写で書かれおり、読んでいてとても楽しい。

武田惣角は子供のころから背が小さいが、敏捷な動きと度胸の良さで相撲は強く、会津の奉納相撲では「子ザル」と言われ人気者であった。惣角は相撲、棒術のほか、剣は小野派一刀流、直心影流を学んでいた。

直心影流は幕末最後の剣豪と言われた榊原健吉の榊原道場に入門した。榊原の地獄道場では想像を絶する厳しい試練があった。防具をつけたまま弟子たちが失神しているし、食事も新参者の惣角が食べられる頃にはほとんど残ってなく、空腹で頑張り抜かねば内弟子としてとどまれない。

そんな厳しい榊原の地獄道場での試練に耐え抜き、惣角17歳ころには立派な剣術の使い手に成長しており榊原健吉の秘蔵弟子であった。

それから惣角は日本各地に武者修行に出かけ、行く先々で死にそうな目にも合うが、いろんな使い手にも出会い成長していく様子が劇画のような話でとても楽しいと同時に武田惣角の超人的達人に胸躍らされること間違いなしです。




惣角の武者修行の武勇伝

武勇伝と言うと少し違う気がしますが、惣角がほぼ生涯かけて日本全国を武者修行しているときの出来事の、ほんの一部を紹介したい。

明治11年5月上旬、惣角19歳の頃、仙台へ武者修行の旅に出た。その頃政府は仙台を軍部とするため、東京から直通の国道開発の工事を急いでいた。道路工事の人夫は、国内を流れ歩いているならず者ばかりで、血の雨を降らすのを日常茶飯事としている。

ならず者が悪さを働いていることを聞いた惣角は、無頼の土方が何百人いようとも、天下の往来を避けて通ることはないと堂々と通行してやろうと惣角は心に決めた。数え年19歳の惣角は、死を恐れない向こう見ずであった。

翌朝、日の昇る前に宿を立ち、午後はやく二本松を過ぎ夕刻には松川の手前まで来ていた。そのあたりから褌ひとつに向こう鉢巻の人夫が増え始め、娘が道をゆくのを見ると、奇声を上げ、卑猥な言葉を聞こえよがしにわめき立てていた。

政府の手先が行う道普請の人夫達に脅されては会津武士の名折れだと惣角は眉を上げ進んだ。峠を越えると左右に飯場が立ち並び、おびただしい人夫が軒下で丼を手に夕食を取っている。徳利を傾け、酒を飲んでいる一群も目についた。惣角が現れると彼らは一斉に視線を集めた。

湯呑で酒をあおっていた男は立ち上がり、惣角の方へ向かってきた。大男は惣角の前に立ちふさがった。
「おい小僧、手前は誰の許しがあって、この道を通っているのっしゃ」
惣角は相手の目を見すえる。
「誰かに許しを受けねば歩けねえのかや」
「おう、あたりめえだべ。このあたりの縄張りを取り仕切っているのは俺だ!」と大声でやり取りしているうちに、いつの間にか周りには3~40人の人夫が人垣をつくり、取り囲んでいた。

「小僧、つべこべいうのもこれまでだべ。裸にして放り出してやらあ」と言うなり、木の根のような腕を突出し、惣角の胸倉をつかんだ。
惣角は肩に担いでいた仕込杖で、袈裟がけに一撃を食らわせ大男を打ち据えるつもりだったが、仕込杖の先に、防具袋をぶら下げているのを忘れていた。

仕込杖が動くと同時に、防具服もソウカクの頭上を弧を描いて前に飛び、打ち込みに勢いが付き、鞘が二つに割れ、刀身が大男の右肩から乳下まで六寸ほどを深く断ち割った。

血しぶきが噴水のようにあがり、大男は悲鳴とともに朽ち木倒しに地面に転がった。思いがけない光景に人夫たちは逃げ散ったが、これが人夫たちの無頼の本性にスイッチがはいいたようで鶴橋、天秤棒、槍かんななどを手にして、駆け戻ってきた。

惣角は逃げながら、追って来るものを切り捨てた。しかし斬って斬って斬りまくってやれと覚悟を決めると、惣角は押し合い追いかけてくる敵中に、自分から切り込んでいった。

恐怖の叫びをあげ、なだれうって逃げ去る敵を、惣角は容赦なく切り倒した。その数40人近く殺傷したようだ。さすがの名刀も、次第に刃こぼれがひどくなってきた。

人夫たちも、惣角とまともに戦えば斬られると知り、遠巻にして雨のように石を投げつけた。惣角は頭や眼をかばったが、後頭部を狙い打たれ、血まみれになったところに、土砂がいっぱいついたモッコを四方から投げつけられ、天秤棒やツルハシで惣角を打ち据え、ついに惣角はうつぶせに倒れ込んだ。
「よくも大勢を斬りやがったな」
「ぶっ殺せ!」
惣角の全身に乱打がくわえられ動かなくなったところに、兄貴分の人夫がツルハシを手に前に出た。
「お前ら、ひっこめ。俺がこの野郎のとどめを刺してやっぺ」ツルハシを握りなおして惣角の上にまたがると、力任せに打ち下ろしたツルハシは、音を立てて惣角の肋骨を砕き、肺の中へ深く打ち込まれた。

心臓を狙った一撃であったが、狙いはわずかに外れていた。惣角はそのまま意識を失った。



浦和警察署での指導初日(武田惣角)

福島県下での、人夫数百人を相手の乱闘事件で一命を取り留めたあと、惣角は約二十年間を、武者修行の旅に過ごした。惣角は決してひところにはとどまらず、北海道、千島からハワイに至るまで武芸行脚をつづけた。

当時の武者修行は、命懸けでなければできるものではなく、惣角はしばしば生命の危機に脅かされつつ、不退転の気概で生き抜いてきたのである。そんな惣角は晩年においても、なお壮者を凌ぐ実力を備えていた。

惣角77歳、昭和十一年春のころ、惣角は息子時宗と共に、佐川という高弟を連れて埼玉県浦和警察署におもむいた。警察署道場には全署員の他に横山師範、惣角の高弟である渋谷中佐の連絡を受けた柔道、剣道、居合道の大家が見学に出席している。

惣角は羽織を脱ぎ、上衣に袴のいでたちで歩み出る。腰の曲がった歯の抜けた小柄な老人を見て、見学者たちは声を呑む。

向かい合って立った柔道着姿の横山師範と比べると、大人と子供であった。横山師範も内心、道場で試合をすれば思うがままに引き回せると考えていた。相手がどれほど巧みな体術を使おうと、肝心の力が尽き果てた老人であり、片手で扱っても腕の一本くらいはたやすくへし折れると、たかをくくった。

審判役が「勝負!おはじめください!」と声をかける。横山はすり足で前へ出た。

横山は無防備な姿で棒立ちに立っている惣角の襟を、右手で掴んで、引き寄せようとすると、何の抵抗もなく近づいてくる。

次の瞬間、投げるために腰を落とそうとすると、不意に利き腕をひねられた。突き放そうとすると、腕を伸ばした方角へ引き込まれ、火のような痛みが関節を走り、思わず惣角の袖をつかみ引き戻そうとすると、腕の付け根が外れそうになり、のけぞる。

気がつくと、横山は道場をゆるがせ一回転して投げられていた。

惣角は横山の袖を掴んだままはなさず、立ち上がるのを待って再び投げる。足を踏ん張ろうとすると腕を引かれ、惣角を反対に引き寄せようとすると、足で宙を蹴ってひっくり返される。

横山は引きずり上げられては頭から投げ飛ばされるのを、五、六回も繰り返すうちに、意識が朦朧となり、方向がわからなくなった。惣角は横山を立て続けに十数回投げ飛ばした。

「まぁ、これくらいでよかろう」と、惣角は横山の背中を軽く叩いて、席に戻った。


まだまだ武勇伝は続くのですが、お後は本をお読みください。


どこに行ってもこんな感じで、最初は惣角の貧弱な身体を見て、馬鹿にするのと同時に名高い武術家と言われている惣角をひねり潰してやろうと思うのですが、みんなこてんぱんに投げ飛ばされて、顔面蒼白になってひれ伏すのです。

惣角のすごいところは、技もすごいですが相手の心の動きが読み取れるのです。小馬鹿にしていることも即座に読み取り、その中から強そうなものを前にだし、投げ飛ばしてしまうのです。

惣角をつかもうとする瞬間に投げ飛ばされるので、投げ飛ばされた方はなぜ投げ飛ばされたかもわからないまま、何回も投げ飛ばされ気を失いかけるのです。


もちろん惣角の強さは、天性の才能の上に、命をかけて日々鍛錬し、血のにじむような修行をしてきたからできることなのです。