道の器用を知る(剣と禅のこころ)

この「道の器用」とはどういうことでしょうか。著者の佐江先生は「持って生まれた資質・才能のこと」と言っております。

これは「人が人生で何をしてどのように生きるか」を考えるとき、とても大事なことです。しかし自分らしく生きると言うことは、もって生まれた資質や才能に気付いて生きることなのでしょうが、誰しもがその人なりの「道の器用」を持っているのに、なかなか気が付かないのです。

短い一生ですし、そう幾度もやり直しのきかない人生ですから、自分の「道の器用」に早く気付いて、その道に進むべきと本では書かれています。著者の佐江先生も小説家になるまでにはいろいろと寄り道をしたようですが、ある時気が付いたそうです。「小説を書くことが、三度の飯よりも何よりも好きだ!」と。


昔の人はうまいことを言ったものです。「好きこそ物の上手なれ」。そう、好きなことには「その道の器用」が必ずあるのです。道の器用があるからやっていて面白く、好きなことを仕事にすると、人生が実に面白いのです。


しかし、その道の資質があり才能があっても、勉強し努力して磨かなければ、輝きも増さず開花もせず、宝の持ち腐れと言うものです。宮本武蔵も書いてます。

「其後なをもふかき道理を得んと、朝鍛夕錬(ちょうたんせきれん)してみれば、をのづから兵法の道にあふ事、我五十歳の比也。」

「千日の稽古を鍛とし、万日の稽古を錬とす」と武蔵は記してますが、もって生まれた武術の才能に若いときから「朝鍛夕錬」して磨きをかけてきて、五十歳にしてようやく、兵法の道を極めるに至ったのです。

また、有名な孔子の「論語」では

「われ十五にして学に志す。三十にして立つ。四十にして惑わず。五十にして天命を知る。六十にして耳したがふ。七十にして心の欲するところに従ひて矩(のり)をこえず。」とあります。

高齢化社会の今日では、四十歳は「不惑」ではないし、五十歳にして天命を知るどころか、まだまだ惑いの中にいるようです。

昔と違い、今の五十歳は若々しく元気ですので、五十歳を過ぎてから始めても、かなりの成果を出す人が大勢いますし、定年後から始めても遅くはないのです。

自分の「道の器用」に早く気付いて、その道に進む事は素晴らしいことですが、六十歳を過ぎてからでも、遅くはなく、やろうと思った時が、吉日でスタートなのです。

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