浦和警察署での指導初日(武田惣角)

福島県下での、人夫数百人を相手の乱闘事件で一命を取り留めたあと、惣角は約二十年間を、武者修行の旅に過ごした。惣角は決してひところにはとどまらず、北海道、千島からハワイに至るまで武芸行脚をつづけた。

当時の武者修行は、命懸けでなければできるものではなく、惣角はしばしば生命の危機に脅かされつつ、不退転の気概で生き抜いてきたのである。そんな惣角は晩年においても、なお壮者を凌ぐ実力を備えていた。

惣角77歳、昭和十一年春のころ、惣角は息子時宗と共に、佐川という高弟を連れて埼玉県浦和警察署におもむいた。警察署道場には全署員の他に横山師範、惣角の高弟である渋谷中佐の連絡を受けた柔道、剣道、居合道の大家が見学に出席している。

惣角は羽織を脱ぎ、上衣に袴のいでたちで歩み出る。腰の曲がった歯の抜けた小柄な老人を見て、見学者たちは声を呑む。

向かい合って立った柔道着姿の横山師範と比べると、大人と子供であった。横山師範も内心、道場で試合をすれば思うがままに引き回せると考えていた。相手がどれほど巧みな体術を使おうと、肝心の力が尽き果てた老人であり、片手で扱っても腕の一本くらいはたやすくへし折れると、たかをくくった。

審判役が「勝負!おはじめください!」と声をかける。横山はすり足で前へ出た。

横山は無防備な姿で棒立ちに立っている惣角の襟を、右手で掴んで、引き寄せようとすると、何の抵抗もなく近づいてくる。

次の瞬間、投げるために腰を落とそうとすると、不意に利き腕をひねられた。突き放そうとすると、腕を伸ばした方角へ引き込まれ、火のような痛みが関節を走り、思わず惣角の袖をつかみ引き戻そうとすると、腕の付け根が外れそうになり、のけぞる。

気がつくと、横山は道場をゆるがせ一回転して投げられていた。

惣角は横山の袖を掴んだままはなさず、立ち上がるのを待って再び投げる。足を踏ん張ろうとすると腕を引かれ、惣角を反対に引き寄せようとすると、足で宙を蹴ってひっくり返される。

横山は引きずり上げられては頭から投げ飛ばされるのを、五、六回も繰り返すうちに、意識が朦朧となり、方向がわからなくなった。惣角は横山を立て続けに十数回投げ飛ばした。

「まぁ、これくらいでよかろう」と、惣角は横山の背中を軽く叩いて、席に戻った。


まだまだ武勇伝は続くのですが、お後は本をお読みください。


どこに行ってもこんな感じで、最初は惣角の貧弱な身体を見て、馬鹿にするのと同時に名高い武術家と言われている惣角をひねり潰してやろうと思うのですが、みんなこてんぱんに投げ飛ばされて、顔面蒼白になってひれ伏すのです。

惣角のすごいところは、技もすごいですが相手の心の動きが読み取れるのです。小馬鹿にしていることも即座に読み取り、その中から強そうなものを前にだし、投げ飛ばしてしまうのです。

惣角をつかもうとする瞬間に投げ飛ばされるので、投げ飛ばされた方はなぜ投げ飛ばされたかもわからないまま、何回も投げ飛ばされ気を失いかけるのです。


もちろん惣角の強さは、天性の才能の上に、命をかけて日々鍛錬し、血のにじむような修行をしてきたからできることなのです。

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 最近の調査で、生家の身分は士族ではなく農民、実母は農家生まれ、初婚の妻は隣の士族で、御供番という武芸に優れた達人でした。小姓におしえた殿中護身術(柔術・逮捕術)は同じ職場の御供番(60名)が教え、元家老の西郷頼母(身長140センチ・足袋22.5センチ)ではなかった。
 合気は気を導入した武術で、真言密教・修験道・易学を学んだことが子孫の遺稿集で明らかになり、唯一教えられるのが、隣村の易者でした。
 大けがした後、自宅に帰り眼の不自由な双子の妹と、隣に住んでいた妻の看病、易者の気功治療で回復して合気を会得しました。惣角は妹と妻を大事にしました。惣角が強くなったのは眼の不自由な妹を世話し、隣の士族から指導を受けたことです。
 子孫の代で史実が美化され、地元の協力で真実が明らかになりました。「合気の創始者武田惣角」の著者より。

投稿者池月映:2013年04月05日 09:14