佐川幸義師の合気語録(「透明な力」より)

佐藤幸義師は感もよく頭も良かったそうですが、人一倍鍛錬をして身体を鍛え、人一倍技の理を考え修行したそうです。その修行をして気付いた考えを、語録として一部を紹介します。

合気が分かったら、どんなものに対しても力を使わずにできる。力が強いものはやりにくいと言うのは合気ではない。合気は目の付け所が違う。発想がまるで違うのだ。

・若いころはある意味でめちゃくちゃだった。とにかく精神力が大事なのだ。人間ができておとなしいと言うのは芸術家や宗教家には良いが武術家には向かない。若いときはめちゃくちゃで、年を取っていくにつれてだんだんまともになるくらいでないと。


・身体ばかりいくら強くしても、実際の時に、どのような技をどのような要領でやるかと言うことを研究しなければ上達はしないのだ。ただ漠然といくら稽古したり鍛錬を続けたりしていても本当の上達にはつながらないのだ。

・いくら力でなくてできると言ったって本当の合気が出来るようになるためには、相当の鍛錬が必要になる。身体の鍛錬を何十年と毎日つづけて、毎日身体を慣らし続けなければ、本当にできるようにはならない。
身体を鍛え続け、いろいろ考え続けて技が身体からにじみ出てくるのだ。いろいろ工夫しながら毎日鍛錬を猛烈にやっても身体ができるまでに少なくとも二十年はかかる。

この武術は秘密にしているから強いのだ。同じことを教えれば身体の大きい外国人が有利に決まっている。

軽くやって相手に響くようにするのが鍛えるということだ。全力でやらなければならないのは鍛えていない証拠だ。もっとも合気の技をあまり知らないうちに鍛えすぎてもよくない。合気のところを強くする鍛え方で、普通の鍛え方とは違う。私は毎日24通りもの鍛錬を続けている。いろいろやって、それを長年続けてみて初めていろいろな効果がわかってくる。

・だいたい止まってた形でいくら鍛えてもダメなのだ。動きの中で鍛えていかなければ意味がない。

・どんな者でも軽く自由に倒せない限り、どこか悪いところがあるはずだと考えて常に反省しなければならない。自分で良いと思っている限り、いくらやっても変わらない。自分はここがダメだから、そこを直そうと思って一所懸命にやらなければ変わらない。

・技と精神がひとつになっていなければならない。技はすべて精神力をのせてやるのだ。今の人は理に従って動きさえすれば倒れると思っているがそういものではない。

稽古だってただ繰り返していたって何にもならない。心が目的を持って働くときに変わる。「絶対に強くなる」という気持ちがなければダメだ。人並み以上になるということは大変なことだ。武術の修行は厳しいものだ。楽してやろうとか、遊びみたいなつもりでたってもダメだよ。


背の高い人などやりにくい人や苦手な人は自分の先生と思って意識的にやり、いろいろ研究するのだ。うまくいかないから稽古するのであって、技が効かないなんていうのは恥でもなんでもない。出来なくてもやっているうちに少しずつ出来るようになってくる。やることが大切だ。


・相手が強いからできないのではない。自分の修業、研究が足らないからできないのだ。下手だからできないのだ。なんでもほかに転嫁してはいけない。とにかく頼る気持ちはダメだ。いくらやってもモノにはならない。


・敵の知らないことをこちらが知っているから大きい者にも勝てるのだ。本来武術だから人にない自分に独特なものを持っていないと、いざという時に互角になって負けてしまうだろう。だから秘密にしておくということは、当然のことだ。


・武術なのだから、本来鍛錬すら、裏で自分でこっそりやるべきで人に言うべきものではない。なんでも教えてしまっては他の人と同じになってしまい、向上する気力もなくなってしまう。


いくら精神が大事で死ぬ覚悟が出来たって技ができなければ殺されてしまうだけで、精神だけでは何もできない。だいたい技ができない人に限って精神、精神と言うようになる。技が本当にできない武道はその不安を精神ということを強調することによって補おうとしている。だから、気とか言ってごまかすようになる。

考え続けていることが大事だ。考え続けているとふっと新しい考えが浮かんだりする。新しい考えが浮かんだらすぐに書いておいて試してみる。強くならないのは結局考えていないからだ。稽古と稽古の間ですっかり忘れているでしょ。生活と一体になっていなければいけない。

・どんなに優れた人でも完全ということはないのだから、決してその人の言うことを鵜呑みにしてはいけない。学んでも、またそれを自分の考えで開発していかなければならない。自分の頭で良し悪しを判断しなければならない。

・習ったものはすぐ忘れてしまうのだが、自得したものは決して忘れず自分のものになっている。要するに教わるということはヒントをもらったに過ぎない。身体が違うのだから同じやり方で良いとは必ずしも言えない。


・実践の時、力まないでいられる人が素質のある人なのだ。ただでさえ力むのだから稽古では力まぬよう特に努力しなければいけない。力まないで正確にやることが上達の早道なのだ。


・形にとらわれてはいけないし、形を作ってはいけない。作った形は死物である。ひとつの代表として形を教わっても臨機応変に変化する。変化が大事なのだ。

・演武をやる流派はどうしても格好をよくする方に気を取られ力が入ってしまう。そして見栄えのするように、観客に受けるようにという方向に行ってしまう。だから武術の本筋から離れてしまう。武術は本来、命のやり取り、真剣勝負なのだ。生きるか死ぬかの問題で、人に見せて感心してもらおうというのが目的ではない。


抵抗力がいくらついても敵に自由に技をかけることができなくては強くなったとは言えない。他の道場では頑張ってはいけない、とばかりやっているが、そうすると本当のところがなかなか会得できない上に抵抗力すらつかない。頑張ってばかりでは稽古にならないが五回に一回くらいは頑張ってみるということが大切だ。


下手の者とやって角度とか力の出し方を研究するのです。また下手の者は上手の者とやってやり方を学ぶのです。こうしてお互いが伸びてゆくのです。


教わったことはその時になんとしても覚えてしまおうという気持ちが大切だ。今度の練習の時に覚えれば良いとか明日やれば良いという考えではいつまでたっても覚えられない。


・昔は身体のどこを持たれても無力化することが全てと思っていた。身体を鍛え続けているうちに、ある日いつの間にか身体の合気ができるようになっていた。その時つくづく身体を鍛えるのは大切だと思った。こうやって自得したものは教えようがない。


・力任せにやっていると、しまいにお互いに抵抗力がついてお互いに効かなくなって行き詰まってしまうでしょう。それを乗り越えるのが、「くずし」なのです。相手を崩さないでただ手をひねることばかりやっているとすぐに効かなくなる。「くずし」が合気の術なのです。しかし「くずし」は合気の一部で全てではない。


・合気は不思議でもなんでもない、ちゃんと理がある。技はすべて瞬間に合気が入って崩してしまっている。崩してから技をかけるから自由自在なのだ。


・合気がわかってからもなんとか強くなろうとバーベルやったり鉄下駄はいたりして鍛えていたから一時はボディビルをやっている人のように逆三角形のすごい筋肉がついてしまった。しかしさんざんやってみてそんなことは殆ど役に立たない事に気がつき、鍛え方を変えていった。


合気は技術でそこに何があるかという立場で研究を続けるから少しずつ分かってくるが、合気は気の流れだとか後の先だと言うような考えからはいくらやってもなにも出てこない。


技でやるから身体を鍛える必要がないと考えるのは素人だ。何も分かっていない。本当は身体を鍛えないと技もできるようにはならない。


・姿勢がまっすぐになっていなければいけない。前かがみになってはいけない。これは大事なことだ。倒そうという気持ちが先に出てしまっているからだ。正しいやり方をしっかり学ぶことだ。


・何でも心が大切だ。心が外に現れるのだ。


わからないからといって何度も同じ技を繰り返していると、益々わからなくなってくる。考えないで身体ばかりで何度も繰り返してやっているから気が付かない。考える時間を持つことも大切です。


・どんな段階に達してもこれで完成ということはないのだ。毎日の努力、研究、訓練で少しずつ変わっていく。


気力というものは表に出すものではない。内に秘めていく。相手が「オー!」と気合を入れてかかってきたらホーそうかい、と軽く入っていく。


     

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