透明な力(佐川幸義)

「透明な力」 不世出の武術家 佐川幸義

「透明な力」 不世出の武術家 佐川幸義

透明な力(佐川幸義)

木村達雄著 文春文庫  629円+税

著者の木村達雄先生は東大数学科卒でアメリカ、ドイツ、フランスの客員助教授を経て、筑波大学大学院数理物質科教授です。中学3年より合気道を始め、1979年(32歳)に佐川幸義宗範に入門。最高教程の第十元までの直伝講習を受ける。
剣道三段、合気道五段、大東流奥伝四段

この本は、佐川幸義が10歳くらいの頃、武田惣角と出会い、武田惣角は佐川幸義をかわいがり、剣術、大東流柔術を教えた。佐川幸義は感も良く、武田惣角の技をどんどんマスターしていく話で、武田惣角の技の凄さとともに、佐川幸義の技の冴えやその時々の佐川幸義語録を収めたもので、大変に面白く、いくつかは自分の合気道研究に役立つこともあった。




「合気」とは(「透明な力」より一部抜粋)

「合気」という言葉は武田惣角師によって明治時代から使われていた。しかし合気というものがどんなものなのか具体的に説明されていないので実態がわからないのが現実と思う。また、武田惣角師が言うには、「合気は教わるものではなく自分で掴むものだ。しかし合気を分かるには生まれ持った才能と人一倍の研究と努力が必要で、才能のない人間はいくらやっても合気はわからない。」と言っています。

私がいろいろな文献などで知る限りでは、「合気」ができるのは武田惣角師とその高弟である佐川幸義師、植芝盛平師だけで、現在の平成時代には「合気」をできる人がいないと思われます。合気は説明されてできるものではなく、やられた感じをもとに自分で考え、ものにしていくことだとすると、もう合気をできる人がいないのだから合気を習得することが極めて困難なこととなっています。

しかし、佐川幸義師のような天才的な才能を持った人が日々絶え間無い鍛錬と研究をすれば合気をやれるようになるかもしれません。


佐川幸義の父親は武田惣角師に技を習っては外で工事作業員など屈強な男たちを相手に技を試していたが、結局合気がないと頑張られたら技は効かないことを分かっていた。佐川幸義17歳の時、父親と一緒に「合気上げ」を一生懸命研究した。とにかく夢中で取り組んで、ついにどんなに強く抑えられても力を使わないで軽く手を挙げてしまうという呼吸というかコツを掴んでしまった。父親はすごく驚いていた。父親には力が抜ける理由を説明した。だから父親も敵の力を抜くことができたという。

「合気上げ」:互いに座って向かい合い。一方の人が両手で相手の両手を抑える。抑えられた方は、その両手を上に上げる。しっかり抑えられると、上げようとしてもなかなか上げることができない。どう強く抑えられても軽く自由に上げることができることを目標に稽古する。


合気がわかったら、どんな者に対しても力を使わずにできる。力が強いものはやりにくいというのでは合気ではない。合気は目の付け所が違うし、発想がまるで違うのだ。努力すればできるというものではない。

考え方がまるで違うから頭を使わなければならない。頭の悪い人は絶対にできない。それと鍛錬だ。鍛錬している人でも合気を取りにくいのに、鍛錬していないものが分かるはずがない。

合気は力でやるわけではないし、敵の力も受けないし、敵の力も出ないようにしてしまう。こういったやり方だから年をとってもできるのだ。合気がなければ年をとったらできない。

合気は集中力とか透明な力というような、いわゆる力とは違うもので、合気は敵の力を抜いてしまう技なのだ。
合気は外から見てもわからない。内部の働きで相手の力を抜いてしまい、形には現れない。もとは簡単な原理から出発しているが誰も気がつかない。

合気がわかってから本当の修行が始まるのだ。長い間の持続した鍛錬と研究の結果、少しずつできるようになってくるもの。本来うまくいかなかった時に、いろいろと考え工夫するのが一般的に上達する仕方で、それをやらなければいくらやってもダメ。諦めたら何も出てこない。考え続けていると少しずつできるようになる。

身体がちょっとでも動けば相手は力が入らなくなってしまう。ここまで鍛えなければならない。どんな動きにしろ少しでも動いたらくずしている。いかなる時でも相手を崩している。この体合気は才能があるものでも二十年、三十年やったってとてもできるものではない。才能がないものは何十年やろうと絶対にできない。

合気は開眼しなければならない。これはヒラメキだから天才ならすぐにわかってしまうかもしれないが、わからない人はいくらやってもわからないだろう。しかし合気は理が分かって何十年かの鍛錬をすれば誰でも出来るのであって気とか精神的なものではない。

合気は技術であるから年とともに上手くなっていくが、時間もかかるのです。本当に合気ができるようになるためには、血のにじむような死に物狂いの修行がいる。

合気は仮に教わったとしても一年やそこらで出来るわけがない。体を鍛えないでいろいろ考えたとしても出来るわけがない。それに合気は本来口で説明を受けるものではなく、やられた感じをもとに考え、自分のものにしていくべき種類のものなのだ。

みんな考えないで、ただ繰り返しているから、うまくいったりいかなかったりしている。とにかく全然努力が足りないのだ。どうも、皆形を真似しようとして形さえ真似できれば良いと思っているようだがそうではない。形ではなく形に現れないところに本当に大事なものがあるのだ。長い間の持続した鍛錬と研究の結果少しずつできるようになっていくものだ。

ただし、長い積み重ねがあってもできるようになる保証はない。保証は自分自身の中にしかない。


いかがでしょうか?佐川幸義師が言う「合気」をお分かりになったでしょうか?やっぱりよくわかりませんね。でも、はっきり言えることは、「技をどうしたらうまくできるかを考えて考え抜いて稽古をし鍛錬をしていくことがとても大事だ」と言うことです。そうすれば、もしかしたら貴方も合気ができるようになるかもしれません!(^_^)v



佐川幸義師の合気語録(「透明な力」より)

佐藤幸義師は感もよく頭も良かったそうですが、人一倍鍛錬をして身体を鍛え、人一倍技の理を考え修行したそうです。その修行をして気付いた考えを、語録として一部を紹介します。

合気が分かったら、どんなものに対しても力を使わずにできる。力が強いものはやりにくいと言うのは合気ではない。合気は目の付け所が違う。発想がまるで違うのだ。

・若いころはある意味でめちゃくちゃだった。とにかく精神力が大事なのだ。人間ができておとなしいと言うのは芸術家や宗教家には良いが武術家には向かない。若いときはめちゃくちゃで、年を取っていくにつれてだんだんまともになるくらいでないと。


・身体ばかりいくら強くしても、実際の時に、どのような技をどのような要領でやるかと言うことを研究しなければ上達はしないのだ。ただ漠然といくら稽古したり鍛錬を続けたりしていても本当の上達にはつながらないのだ。

・いくら力でなくてできると言ったって本当の合気が出来るようになるためには、相当の鍛錬が必要になる。身体の鍛錬を何十年と毎日つづけて、毎日身体を慣らし続けなければ、本当にできるようにはならない。
身体を鍛え続け、いろいろ考え続けて技が身体からにじみ出てくるのだ。いろいろ工夫しながら毎日鍛錬を猛烈にやっても身体ができるまでに少なくとも二十年はかかる。

この武術は秘密にしているから強いのだ。同じことを教えれば身体の大きい外国人が有利に決まっている。

軽くやって相手に響くようにするのが鍛えるということだ。全力でやらなければならないのは鍛えていない証拠だ。もっとも合気の技をあまり知らないうちに鍛えすぎてもよくない。合気のところを強くする鍛え方で、普通の鍛え方とは違う。私は毎日24通りもの鍛錬を続けている。いろいろやって、それを長年続けてみて初めていろいろな効果がわかってくる。

・だいたい止まってた形でいくら鍛えてもダメなのだ。動きの中で鍛えていかなければ意味がない。

・どんな者でも軽く自由に倒せない限り、どこか悪いところがあるはずだと考えて常に反省しなければならない。自分で良いと思っている限り、いくらやっても変わらない。自分はここがダメだから、そこを直そうと思って一所懸命にやらなければ変わらない。

・技と精神がひとつになっていなければならない。技はすべて精神力をのせてやるのだ。今の人は理に従って動きさえすれば倒れると思っているがそういものではない。

稽古だってただ繰り返していたって何にもならない。心が目的を持って働くときに変わる。「絶対に強くなる」という気持ちがなければダメだ。人並み以上になるということは大変なことだ。武術の修行は厳しいものだ。楽してやろうとか、遊びみたいなつもりでたってもダメだよ。


背の高い人などやりにくい人や苦手な人は自分の先生と思って意識的にやり、いろいろ研究するのだ。うまくいかないから稽古するのであって、技が効かないなんていうのは恥でもなんでもない。出来なくてもやっているうちに少しずつ出来るようになってくる。やることが大切だ。


・相手が強いからできないのではない。自分の修業、研究が足らないからできないのだ。下手だからできないのだ。なんでもほかに転嫁してはいけない。とにかく頼る気持ちはダメだ。いくらやってもモノにはならない。


・敵の知らないことをこちらが知っているから大きい者にも勝てるのだ。本来武術だから人にない自分に独特なものを持っていないと、いざという時に互角になって負けてしまうだろう。だから秘密にしておくということは、当然のことだ。


・武術なのだから、本来鍛錬すら、裏で自分でこっそりやるべきで人に言うべきものではない。なんでも教えてしまっては他の人と同じになってしまい、向上する気力もなくなってしまう。


いくら精神が大事で死ぬ覚悟が出来たって技ができなければ殺されてしまうだけで、精神だけでは何もできない。だいたい技ができない人に限って精神、精神と言うようになる。技が本当にできない武道はその不安を精神ということを強調することによって補おうとしている。だから、気とか言ってごまかすようになる。

考え続けていることが大事だ。考え続けているとふっと新しい考えが浮かんだりする。新しい考えが浮かんだらすぐに書いておいて試してみる。強くならないのは結局考えていないからだ。稽古と稽古の間ですっかり忘れているでしょ。生活と一体になっていなければいけない。

・どんなに優れた人でも完全ということはないのだから、決してその人の言うことを鵜呑みにしてはいけない。学んでも、またそれを自分の考えで開発していかなければならない。自分の頭で良し悪しを判断しなければならない。

・習ったものはすぐ忘れてしまうのだが、自得したものは決して忘れず自分のものになっている。要するに教わるということはヒントをもらったに過ぎない。身体が違うのだから同じやり方で良いとは必ずしも言えない。


・実践の時、力まないでいられる人が素質のある人なのだ。ただでさえ力むのだから稽古では力まぬよう特に努力しなければいけない。力まないで正確にやることが上達の早道なのだ。


・形にとらわれてはいけないし、形を作ってはいけない。作った形は死物である。ひとつの代表として形を教わっても臨機応変に変化する。変化が大事なのだ。

・演武をやる流派はどうしても格好をよくする方に気を取られ力が入ってしまう。そして見栄えのするように、観客に受けるようにという方向に行ってしまう。だから武術の本筋から離れてしまう。武術は本来、命のやり取り、真剣勝負なのだ。生きるか死ぬかの問題で、人に見せて感心してもらおうというのが目的ではない。


抵抗力がいくらついても敵に自由に技をかけることができなくては強くなったとは言えない。他の道場では頑張ってはいけない、とばかりやっているが、そうすると本当のところがなかなか会得できない上に抵抗力すらつかない。頑張ってばかりでは稽古にならないが五回に一回くらいは頑張ってみるということが大切だ。


下手の者とやって角度とか力の出し方を研究するのです。また下手の者は上手の者とやってやり方を学ぶのです。こうしてお互いが伸びてゆくのです。


教わったことはその時になんとしても覚えてしまおうという気持ちが大切だ。今度の練習の時に覚えれば良いとか明日やれば良いという考えではいつまでたっても覚えられない。


・昔は身体のどこを持たれても無力化することが全てと思っていた。身体を鍛え続けているうちに、ある日いつの間にか身体の合気ができるようになっていた。その時つくづく身体を鍛えるのは大切だと思った。こうやって自得したものは教えようがない。


・力任せにやっていると、しまいにお互いに抵抗力がついてお互いに効かなくなって行き詰まってしまうでしょう。それを乗り越えるのが、「くずし」なのです。相手を崩さないでただ手をひねることばかりやっているとすぐに効かなくなる。「くずし」が合気の術なのです。しかし「くずし」は合気の一部で全てではない。


・合気は不思議でもなんでもない、ちゃんと理がある。技はすべて瞬間に合気が入って崩してしまっている。崩してから技をかけるから自由自在なのだ。


・合気がわかってからもなんとか強くなろうとバーベルやったり鉄下駄はいたりして鍛えていたから一時はボディビルをやっている人のように逆三角形のすごい筋肉がついてしまった。しかしさんざんやってみてそんなことは殆ど役に立たない事に気がつき、鍛え方を変えていった。


合気は技術でそこに何があるかという立場で研究を続けるから少しずつ分かってくるが、合気は気の流れだとか後の先だと言うような考えからはいくらやってもなにも出てこない。


技でやるから身体を鍛える必要がないと考えるのは素人だ。何も分かっていない。本当は身体を鍛えないと技もできるようにはならない。


・姿勢がまっすぐになっていなければいけない。前かがみになってはいけない。これは大事なことだ。倒そうという気持ちが先に出てしまっているからだ。正しいやり方をしっかり学ぶことだ。


・何でも心が大切だ。心が外に現れるのだ。


わからないからといって何度も同じ技を繰り返していると、益々わからなくなってくる。考えないで身体ばかりで何度も繰り返してやっているから気が付かない。考える時間を持つことも大切です。


・どんな段階に達してもこれで完成ということはないのだ。毎日の努力、研究、訓練で少しずつ変わっていく。


気力というものは表に出すものではない。内に秘めていく。相手が「オー!」と気合を入れてかかってきたらホーそうかい、と軽く入っていく。